アントニオ・マチャード略歴   

    

一八七五年 七月二六日、アントニオ・マチャード・ルイスはセヴィリヤに生まれる。有名な民俗学者の父アントニオ・マチャード・
アルヴァレス、母アナ・ルイス・ヘルナンデスの次男。少年時代をセヴィリヤで過す。
一八八三年、一家はマドリードに移る。「エンセニャンザ自由学園」の生徒となる。学園のリベラルな精神はマチャードの人と成りに
深い影響を与える。
一八九三年(一七歳) 父が四六歳で死亡。アントニオは一七歳。兄のマニュエルとともに、闘牛、演劇に関心を抱く。文学的カフェ
に通う。一八九八年に最初の詩を書く。
一八九九年(二三歳) 兄マニュエルとともに、数ヶ月間パリ滞在。「ドレフュス事件」の時代。
一九〇二年(二六歳) 二度目のパリ滞在。アントニオはルーベン・ダリオと知り合いになる。マドリードに帰って、ファン・ラモン・
ヒメネスと友情を結ぶ。翌年、ヒメネスの編集する重要なモダニズム雑誌『太陽神』誌に協力する。
一九〇七年(三一歳) マチャードはカスチリヤの田舎町ソリアの高校のフランス語教師に任命される。九月、家族寮に入り、そこで レオノール・イスキエルドを知る。年末、 詩集『晝廊』を刊行。
一九〇九年(三三歳) アントニオは七月三〇日ソリアでレオノールと結婚する。
一九一一年、奨学資金を得て、妻同伴でパリに赴き、コレッジュ・ド・フランスでベルグソンの講座に通う。
一九一一年七月一四日、妻レオノールは激しく喀血する。それはのちに彼女の生命を奪うことになる。九月、若い夫婦はスペインに帰る。
一九一二年六月、詩集『カスチリヤの野』を刊行。ウナムノから激賞される。
一九一二年八月一日、レオノール死亡。悲しみにうちひしがれた詩人は転勤を願い、アンダルシアの小さな町バエサの高校に任命される。
母親といっしょに、ここに七年間居住する。
一九一七年(四一才) 全詩集初版刊行。夏、マドリード大学の若い学生グループの訪問を受ける。そのなかに若きフェデリコ・ガルシア
・ロルカがいた。
一九一九年(四三歳) 年末、セゴビヤの高校に転勤。一九三一年までここにとどまる。
一九二八年(五二歳) 『全詩集』(一八九九ー一九二五)の再版刊行。詩のなかでギオマール Guiomar と呼ぶ女性へのラブ・レターが
書き始められる。
一九三一年(五五歳) 四月一四日 第二共和国の宣言。
一九三二年(五六歳) マドリードの高校の教授に任命される。
一九三四年ー一九三五年(五八歳ー五九歳) マチャードは『エル・ディアリオ・デ・マドリード』(マドリード毎日新聞)紙に定期的
に執筆協力する。
一九三六年(六〇歳) スペイン市民戦争の勃発を詩人はマドリードで迎える。詩人は共和国を支持する。八月 ロルカが銃殺される。
マチャードは『犯罪はグラナダで行われた』をロルカのために書く。十一月 母親とともにヴァレンシアに移る。
一九三七年(六一歳) 市民戦争についてそれまでに書いた詩をまとめた『戦争』を刊行。弟ホセが挿画を描く。マチャードは共和派の
雑誌『ホラ・デ・エスパニヤ』に毎号執筆する。
七月 ヴァレンシアでひらかれた第二回『文化擁護世界大会』に参加する。
一九三八年(六二歳) マチャードとその家族はバルセロナに移る。『ホラ・デ・エスパニヤ』誌への協力をつづける。
十二月末、ファシスト軍はバルセロナを包囲する。
一九三九年(六三歳) 一月二二日、詩人は家族と数人の友人とともに、亡命者の一群に加って、バルセロナを離れる。
国境を越え、フランスのコリウールに辿り着く。疲労・心痛・病気のため、二月二二日、ホテル・ブーニョール・キャンタナにおいて
死去。三日後、母親もあとを追うように死亡。マチャードは母親とともにコリウールの墓地に葬られる。