ルイ・ アラゴン 年譜・資料など

アラゴン『フランスの起床ラッパ』より

 
アラゴン『フランスの起床ラッパ』より
                               大島博光

「薔薇と木犀草」 ─ アラゴンの『フランスの起床ラッパ』(一九四五年)に収められている詩は、リヨンやサン・ドナ における詩人の地下生活のなかで書かれたが、詩集として出版されると、かってない広範な大衆に読まれ、 ヴィクトル・ユゴーの『懲罰』詩集以来の大成功を収めたといわれる。この詩集から、忘れがたい、有名な詩を いくつか書きしるしておこう。
 まず「薔薇と木犀草」は、「神を信じた者も/信じなかった者も」という有名な詩句で知られる詩である。

 薔薇と木犀草(抄)

神を信じた者も
信じなかった者も
ドイツ兵に囚われた あの
美しきものをともに讃えた
ひとりは梯子にのぼり
ひとりは地にうっ伏した
神を信じた者も
信じなかった者も
その足跡はかがやいていた
その呼び名は問うまい
・・・
神を信じた者も
信じなかった者も
麦が霰にうたれているとき
気むづかしいのは愚かなこと
共同のたたかいのなかで
たがいに争うのは愚かなこと
神を信じた者をも
信じなかった者をも
高い砦のうえから
哨兵は撃った ひとりまたひとり
ひとりはよろめきたおれ
ひとりは倒れ 息絶える
神を信じた者も
信じなかった者も
ともに裏切らなかった
あのものの名をくり返えし
赤いその血は流れ 流れる
おなじ色に おなじ輝き
神を信じた者も
信じなかった者も
その血は流れ 流れ交わる
ともに愛した大地のうえに
新しい季節がくるとき
麝香葡萄のよく実るように
神を信じた者も
信じなかった者も
ひとりは地を駈けひとりは空をとぶ
ブルターニュから ジュラの山から
蝦夷苺よ すももよ
蟋蟀もなお歌いつづけよ
語れ フリュートよ セロよ
雲雀と燕とを
薔薇と木犀草とを
ともに燃えたたせた あの愛を

 この詩は、キリスト者のエティアンヌ・ドルヴとジルヴエル・ドリュにささげられると同時に、 共産党員のガブリエル・ペリとギイ・モケにささげられている。
 ジルヴエル・ドリュはカトリックの学生で、一九四四年七月二十七日、リヨン市のベルクール広場でドイツ兵によって銃殺された。「手を触れるべからず」というドイツ軍の布告のために、遺体は三十日午後四時まで放置された。その後、ドリュの遺体が収容されたとき、そのポケットから赤い表紙の小さな詩集がでてきた。アラゴンの『ブロセリアンドの森』だった。アラゴンは書く。││「こうして唯物論者のこの詩集は、見知らぬフランスの若者の、キリスト者としての情熱に結びつくことになった・・・」  この詩は、思想と信仰はちがっていても、ともに祖国解放のためにたたかい仆れた英雄たちを讃え、その共同のたたかいを歌っており、ひろい統一行動を呼びかける詩として、ひろく知られている。
 「ストラスブール大学の歌」 ─ 一九四三年十一月、中仏オーヴェルニュ地方のクレルモン・フェランにおいて、ストラスブール大学の教授、学生たちが銃殺され、数百名が逮捕された。大学は戦火と弾圧を避けて、ストラスブールからこのクレルモンの地に疎開していたのだった。この悲劇は、アラゴンにつぎのような忘れがたい美しい詩を書かせることになる。

 ストラスブール大学の歌

陽の色に輝やくカテドラル
ドイツ人どもに囚われながら
おんみは倦むことなく数える
めぐる季節を 月日を 流れる時を
おお ストラスブールのカテドラル

学生たちは別れを告げて逃れ出た
アルザスの空翔ぶ鵠鶴と
おんみの薔薇形窓の思い出を
いっぱいつめた背負袋を肩に
それは ながい別れとなる

教えるとは 希望を語ること
学ぶとは 誠実を胸にきざむこと
かれらはなおも苦難のなかで
その大学をふたたび開いた
フランスのまんなかクレルモンに
古今の学に通じた教授たち
審判者の眼差しをもった若者たち
君たちはそのかくれ家で
大洪水の明けの日にそなえた
ふたたびストラスブールへ帰える日に

学問とは永い永い忍耐
だが今 なぜすべてのものが黙っているのか
ナチどもははいりこんできて 殺している
暴力だけがやつらのただ一つの特性だ
殺すことだけがやつらのただ一つの学問だ

やつらは鉄の拳で撒き散らす
われらのかまどの灰までも
やつらは手あたりしだい撃ち殺す
見よ 教壇にうつ伏したあの屍を
友よ 何を われらは何をなすべきか

「無垢な幼児たち」の大虐殺を
もしもヘロデ王が命じたとすれば
それは君らのうちよりひとりのキリストが
あらわれでて 美しい血の色に
目覚めるのを怖れるからと 知れ

ストラスブールの息子たちはたおれても
だが 空しくは死なないだろう
もしも 彼らの赤い血が
祖国の道のほとりにふたたび花咲き
そこにひとりのクレベエルが立ち上るなら

今よりはかずかずのクレベエルたち
それは百人となり 千人となり
つづく つづく 市民の兵士たち
われらの山やまに 町まちに
義勇兵とパルチザンたち

われらはともに行こう ストラスブールへ
二十五年まえの あの日のように
勝利はわれらの頭上にあるのだ
ストラスブールへ だが何時と君たちは言うのか
よく見るがよい 震えおののくプロシャ人どもを

ストラスブールの プラーグの オスロオの
三つの受難の大学よ
よく見るがいい 銃をうつやつらの姿を
奴らはもう知っている 逃げだす日の近いのを
敗北こそ 奴らのさだめだと

よく見るがいい 奴らがおのれの運命を知り
士気もおとろえた その姿を
死刑執行人どもこそ罪人にかわるのだ
やつらに戦車と手先があろうと
やつらを追いだすのだ 今年こそ

武装を解除された英雄たちよ 武器をとれ
ストラスブールのためフランスのため世界のため
聞け あの深く どよもし どよもす
フランスの声を 祖国の声を
鉤 十 字の殺人どもは滅びるのだ

陽の色に輝やくカテドラル
ドイツ人どもに囚われながら
おんみは倦むことなく数える
めぐる季節を 月日を 流れる時を
おお ストラスブールのカテドラル

 「教えるとは 希望を語ること/学ぶとは 誠実を胸にきざむこと」─これらの言葉ほど、教育・学問の 真の意味を言いあてたものはなく、それは読むひとの胸にいつまでも残らずにはいない。この真の学問にたいして、 「殺すことだけがただ一つの学問」であるナチのファシズムが対置され、その野蛮さがきわだつことになる・・・

 「責苦のなかで歌った者のバラード」  一九四一年十二月十五日、ガブリエル・ペリはモン・ヴァレリアンにおいて 人質として銃殺された。ペリはフランス共産党の指導者のひとりで国会議員であり、ドイツ・ファシズムにたいする仮借 なき批判者であった。一九四一年夏、かれはヴィシイの売国政府によって逮捕されたのち、ドイツ軍に引渡された。 ドイツ軍はかれに裏切らせるために、あらゆる甘言と拷問を用いたが、かれは毅然として拒否し、処刑された。ペリの一周忌 を記念して、アラゴンはつぎの詩をかいた。

 責苦のなかで歌った者のバラード(抄)

もし もう一度 行けとなら
わたしはまた この道を行こう
ひとつの声 牢獄より起こり
明日の日を 告げる

独房に 二人の男がやってきて
その夜 彼にささやいたという
降伏しろ こんな暮らしには
おまえも うんざりだろう

ただ一言だけで 虚偽の一言だけで
おまえの運命は 変わるのだ
思ってもみろ 思っても
あのそとの すがすがしい朝を

だが もう一度行けとなら
またこの道を わたしは行こう
牢獄より湧きあがる声は
明日のひとびとに 語りかける

為すすべなく やつらの去る時
彼のうえに 彼の血がしたたる
それが 彼のただひとつの切札
それが この無垢のひとを滅ぼす

おお 友よ わたしが死んだら
わたしの愛と わたしの拒否とが
なんのためだったか わかるだろう
わたしは死ぬが フランスは残る

弾丸のしたでも 彼はうたった
「血に染む旗は 挙げられぬ」と
二度目の斉射までに その歌を
歌いおわらねばならなかった

マルセイエーズを歌いおわった時
もうひとつの フランスの歌が
かれの唇をついて 湧きあがった
全人類のための インターナショナルが

 ガブリエル・ペリの共産党員としての誠実さ、ゆるぎない未来への信頼、深い祖国愛などを、詩人は「歌」としてみごとに 歌いあげている。
 この詩は、アラゴンのところにも作者とは知らずにとどけられた。彼の仲間さえそれが彼の詩だとは気がつかなかった。
 ところで、処刑の前夜にペリが書きのこした手紙もまた、共産党員の遺言として知られている。
 「わたしは最後にもう一度じぶんの良心をふりかえってみた。少しもやましいことはない。もしも、 もう一度人生をやりなおさねばならぬとしても、わたしは同じ道を行くだろう。わたしは今夜もやはり信じている。 『共産主義は世界の青春であり』そして『それは歌うたう明日の日を準備する』と言った親愛なるポール・ヴァイヤン・ クーチュリエの言葉の正しかったことを。わたしはまもなく『歌うたう明日の日』を準備するだろう。わたしは死に直面する 力をもちあわせているように思う。さようなら、フランス万歳!」

 「ガブリエル・ペリの伝説」──ペリの英雄的な死は伝説としてひろまる。一九四四年三月、ペリの三周忌を記念して、 アラゴンは「ガブリエル・ペリの伝説」を書く。

  ガブリエル・ペリの伝説

墓場はイヴリイ
その共同墓地の奥に
月も出ぬ闇のなかに
横たわる ガブリエル・ペリ
殉難者はなおも悩まし現われる
あの暗殺者どものこころに
民衆の涙の落ちるところに
かずかずの奇跡があらわれる

イヴリイの墓地で やつらは信じた
多くの犠牲者たちの そのなかで
ガブリエル・ペリの 息の根をとめて
罪業を隠しおおせたと 信じた

だが死刑執行人どもには うつ手がなかった
一滴の 赤い血の痕をまえに
そこから道行くひとを遠ざけるために
奴らはそこに パトロール隊を置いた

ガブリエル・ペリを 怖れるあまり
そんなことをきめても やってくる
悩みのたねは 容赦なくやってくる
イヴリイの墓地の そのあたり

伝説的な死者たちの眠るところ
影は つねに叫びつづける
そこに あやしく花咲きつづける
青い紫陽花の花が 日暮れ頃

そこ イヴリイの墓地にひらく
その扉を閉ざしても むだだ
夜ごと誰かが 花を捧げにくるのだ
かくて ガブリエル・ペリは花咲く

沈黙のうえの 雲の切れ目に
雨降るときも 太陽は美しい
そうして 想い出の眼は青い
暴力の手にたおれたひとに

ああ イヴリイの墓地に
われらの不幸の花束は重い
だが その花の色はかるい
ガブリエル・ペリの気に入るように

ああ よみがえる その花びらのなかに
かれのふるさとの 明るい色が
地中海の あの海の色が
かれのツーロンが 青春の色に

花束は あの愛を告げる
ここ イヴリイの墓地に
ガブリエル・ペリの息絶えた夜明けに
生れいでた あの愛を告げる

むごたらしい暴君どもよ 知れ
怖れよ この輝かしい死者たちを
かれらは 民衆とその怒りとを
燃え立たせる 怖るべき酒と 知れ

やつらは もみ消し去ろうと企てる
だが ここ イヴリイの墓地に
吹きゆく風は 過ぎゆくひとに
ガブリエル・ペリの名を告げる

おお 銃殺者どもよ 覚えていよう
あの朝 彼がなおも歌っていたのを
見ろ 消しそこなった ひとつの火を
火はここに埋められても かしこに燃えあがろう

かれはいまも歌う イヴリイの墓地に
そして かずかずのあけぼのが
かずかずの ガブリエル・ペリが
あとにつづく つづく その声に

昨日のように 今日もまた
たおれてゆく 光はこぶものは
だがつづく 光継ぐものは
しかも光はかわらぬ 明日もまた

こころなき 冷めたい大地のしたに
フランスのため いまも高鳴る
ガブリエル・ペリの心臓は高鳴る
そこ イヴリイの墓地に

 この美しい詩には、つぎのような作者の注がついていて、この詩が人びとの口から口へと伝えられていた伝説にもとづいて書かれた 事情を興味深く物語っている。  「この詩はガブリエル・ペリの三周忌のために書かれたもので、じっさいに伝説に属していて、歴史には属していない。 ガブリエル・ペリが埋葬されたのは、じっさいはイヴリイの墓地ではなく、シュランヌの墓地であり、共同墓地ではなく、 登録された墓地である。しかしながら、作者は当時地下にもぐっていたが、この詩の細部にいたっては、ひとつも創作していない。 青い紫陽花の話も作者の創作ではなく、恐らく多くのひとびとによってつくり出され、語り伝えられたものにちがいない。 ペリの死後、二年も経たないうちに、早くもペリについての口伝えがひろまり、それがじっさいとはちがったこの詩を作者 にもたらしたのであり、こうして『ローランの歌』や「吟遊詩人たち」の時代のように、こんにち、ひとつの伝説が生まれたのである。 『ローランの歌』の時代にも、こんにちと同じように、フランスは老いぼれ兵と怪物どもにふみ荒され、ゆだねられ、フランスじゅうに 多くの詩が口から口へと伝えられたのだった。」  これら、美しい内容と韻律をもった歌は、たちまち大衆的な支持をえて、ひろく読まれるようになった。学校を出てから詩などを 読んだことのない人たちまでがこれを読んで、いっしょにたたかった。  詩は民衆に溶けこみ、詩人は民衆に結びついたのである。

                        (一九九八年)