年譜・資料など

点滴の歌(散文と詩)

 
 点滴の歌(散文と詩)  

         ─外科病室にて            大島博光

 この六月 わたしは大腸にできたポリープ(癌)を切りとる手術をうけた
 数年来 わたしは頑固な便秘に悩まされてきたが その原因がこの大腸にできたポリープにあるらしいと いうことで 立川の病院に入院した
 入院すると まず点滴がつけられて 口からものをたべることが禁じられる  これから五十日間ほどは 点滴だけで生きることになる それにしてもすばらしい仕掛けが発明されたものだ
 ところで すでに八十八にもなって持ち時間をかぞえてるような者が 大きな手術をうけてどうなろう ・・・とわたしは余計なことを考える そんな余計な考えをおしのけて 医療の生の論理は  手術へむけて着々と進行する もろもろの怖ろしい検査がつづく 胃カメラ 内視鏡による大腸検査  レントゲンによる断層写真 心電図などなど 胃カメラのごときは 胃の中をゴリゴリとかきまわされて  いのちのちぢむ思いであった これだけでも 大いに体力を消耗したように思う
 ところが手術の方は極めて快適であった 手術室に入って 背中に麻酔薬を注射されると その後  もう手術中のことは何ひとつ感覚も痛みも記憶もない 手術後 夕ぐれになって 集中治療室で麻酔から 醒めても まだ心地よい酔い心地で 部屋の照明さえ黄色くやわらかく夢心地だった その夜  わたしは一枚の大きな原稿紙にかかれた詩を夢に見た
 翌朝 手術天国の集中治療室から下界の外科病室にもどると わたしはベッドのうえに半身になって  夢の中の詩を書きとった からだは動かなかったが痛みはなく 意識ははっきりしていた

  夢の中の詩

 わたしはよみがえる
 希望のなかにずっしりと根をおろして
 わたしは生まれかわる
 くらやみばかりを見ていた
 きのうは消えうせる

 わたしは机にむかって
 また生きることができる
 そうしてまた詩をかくことができる
 わたしはまた詩人に生まれかわる
 わたしは見た 新しい光を
 新しいあけぼのを 風を

 新しい物語をつくりだそう
 生きてたたかうのに
 役立つような詩を書こう
         六月十九日

 こう書きうつしてみると それはわたしの無意識の願望を無邪気に声高くうたっているかのようだ  やはり夢の中の詩だったのだろう わたしはただ忠実に書きうつしたように思う
 それから退屈な長い回復期が始まる 点滴のしたたりの下で

  点滴の歌

 うつらうつら うすらやみのなか
 老いて病んだものはまどろみつづける
 ひび割れた うつろな器のように
 ひとり点滴のしたたりにまもられて

 点滴は 一滴 一滴
 砂時計の砂のように落ちる
 うつらうつらのまどろみのなかに
 うつらうつらのうすらやみのなか

 幸いなるかな まどろむものは
 怖れもなく 悔恨もなく
 うつらうつら まどろむものは
 生と死の攻めぎあいも忘れて

 この冬にもあの死に神がやってきて
 待ち遠しげに男を見やりながら
 うろうろあたりをうろついていた
 もういい加減に年貢を納めてしまえ!

 うつらうつら うすらやみのなか
 癒える日を待ってまどろみつづける
 ひとりひたすらにまどろみつづける
 身を切りひらいた試練をうけて

 点滴は 一滴 一滴
 春の夜の雪どけの雨だれのように
 まどろみをはげましてしたたる
 よみがえれ よみがえれ よみがえれ
 
 わたしはいつかみずからを励まし生を励ますことばで詩をむすんでいた わたしがよみがえることができたか まだわからない ただわたしの年貢の納め時がほんの少し延びたことになろう  

    九九年八月十七日 退院の日に

       (『詩人会議』一九九九年十二月号)