老いたるオルフェの歌

 あとがき

   

  あとがき  

 このように、死んだ妻を恋うる詩を書いて詩集に編むことになろうとは、わたしは夢にも思わなかった。わたしよりも十歳の余も若く、元気だった妻が先に死んで、結核を病んで、ぐずぐずと生きてきたわたしがあとに残って ──それも八十歳を越えるとしになって生き残って、生き残った者の悲しみ・苦しみをなめることになろうとは、わたしは夢にも思わなかった。しかし運命はまさにそのように運んだのだった。
 その別れの悲しみから、生き残った者の苦しみから、これらの詩はおのずと生まれた。それは、わたしのすすり泣きのままに生まれ、呻めきのままに生まれた。それは涙がこぼれ流れるように、わたしから流れこぼれた。わたしは、深夜ふとめざめた折に書いたり、朝起きがけに書いたり、散歩の途中、辻公園のけやきの木かげのベンチに坐って書いた……とり憑かれたように、絶望をはらいのけるように。だが、自分のプライヴェートな涙に没頭することに、わたしはいつも一抹のうしろめたさを感じながら、しかしわたしはそれを書かずにはいられなかった。つまり、愛する妻を失った者の涙がこれらの詩を書いたのであり、したがって、死んだ妻がこれらの詩をわたしに書かせたということになろう。
 わたしがこれらの詩をかいているとき、文芸評論家の北条元一は、「悲しみは悲しみとして厳然としてあるのだから……」と言って、わたしをはげましてくれた。
 また、わたしは近藤芳美のつぎのような言葉に大いに勇気づけられた。
 「……これまでにも、老年の歌というのはありました。ただ、老年の孤独をうたって、それで終っているんです。老年になってはじめて、人間とか世界とかをかんがえていく、まだだれも手をつけていない文学がある。それをうたう世界が大きくのこっていると思うんです。人間が、九十になり百になって、さまざまな人生体験をへて、いろいろなものを見て、知って、そのうえでいったい何をうたうか。それはまだ、短歌以外の世界でもやってないんじゃないかと思いますね……」(近藤芳美『余白を語る』朝日新聞一九九一年一〇月一一日付)
 しかし、わたしの詩も老年の孤独をうたうに終っているかも知れない。しかしわたしは詩のなかで孤独とたたかったつもりである。
 こうしてこの詩集の詩は、死んだ妻を恋い、おのれの老いを嘆くという二重の主題によるいくつかのヴァリエーションとなり、またその反復、リフレーンとならざるを得なかった。
 この詩集には前の詩集『冬の歌』の一部分も収められているが、ほとんどは妻の死後一年半ほどのあいだに書かれたものである。そうしてこれはきわめて私的な、プライヴュートな詩集である。(以下略)