ゴーシュロンの人となり
大島博光
わが国ではジャック・ゴーシュロンという詩人はほとんど知られていないので、その人となりにちょっとばかし触れておこう。
ゴーシュロンは、一九二〇年、パリの南方シャルトルの近くのボース平野で生まれた。高校生活をシャルトルで過し、有名なシャルトルの大聖堂に行って、瞑想にふけったという。
一九三六年に始ったスペイン戦争─ファシスト・フランコ軍とスペイン共和国の人民軍との生死を賭けた戦争には、ゴーシュロンはまだ高校生であったが、その支援活動に熱中した、と書いている。
その後、フランス共産党の機関にかかわったらしく、アラゴンの近くにあってその指導をうけたようである。アラゴンは彼より二十三歳年上であって、その頃は五十歳なかばで、党の機関紙「ス・ソワール」紙の編集長であった。ゴーシュロンは書く。
「その頃、わたしはアラゴンとよく顔を合わせた。いろいろなところで、新聞社で、ときどき、帰宅する彼の車のなかで。
「きみ、いっしょにうちへ来ないか!……スールディエル街のアラゴンの家。そこには長い長いテーブルがあった。その四本足の台架の上には、小説、評論、雑文、詩など、数かずの仕事が書きかけのまま繰りひろげられていた。……」(エルザ・アラゴン友の会誌二五号)
その後、彼は大学で美学の教鞭をとる。
わたしが初めてゴーシュロンを知ったのは、彼の著書『詩・レジスタンス─人民戦線からレジスタンスへ』(一九七九年)によってである。この本は、彼が身をもって体験した人民戦線の運動と、それにつづく第二次世界大戦における詩と詩人について、実践的な立場から試みられた歴史的アプローチであって、名著ということができよう。わたしはこの本を参考書のひとつにして『レジスタンスと詩人たち』(白石書店 一九八一年)を書いた。
そしてわたしが詩人ゴーシュロンを知ったのは、あのニューヨークの多発連続テロの起きた二〇〇一年の春頃、詩集『不寝番』(一九九八年)によってである。「湾岸戦争を展望する岬」はこの詩集に収められていたのである。
(『詩集 不寝番』)